「人間の知恵をこえる知恵をもつ方法」

【聖書の箇所】しかしわたしたちは、 円熟している 者の 間では、 知恵を 語る。この 知恵、この 世の者の 知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの 知恵ちえでもない。むしろ、わしたちが 語るのは、 隠された 奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、 世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。この世の 支配者たちのうちで、この知恵を 知っていた 者は、ひとりもいなかった。もし 知っていたなら、 栄光の 主を 十字架につけはしなかったであろう。 しかし、 聖書に 書いてあるとおり、「 目がまだ 見ず、 耳がまだ 聞かず、 人の 心に 思い 浮かびもしなかったことを、 神は、ご 自分を 愛する 者たちのために 備えられた」のである。 そして、それを 神は、 御霊によってわたしたちに 啓示して 下さったのである。 御霊はすべてのものをきわめ、 神の 深みまでもきわめるのだからである。 いったい、 人間の 思いは、その 内にある 人間の 霊 以外に、だれが 知っていようか。それと 同じように 神の 思いも、 神の 御霊 以外には、 知るものはない。 ところが、わたしたちが 受けたのは、この 世の 霊ではなく、 神からの 霊である。それによって、 神から 賜った 恵みを 悟るためである。 この 賜物について 語るにも、わたしたちは 人間の 知恵が 教える 言葉を 用いないで、 御霊の 教える 言葉を 用い、 霊によって 霊のことを 解釈するのである。 生れながらの 人は、 神の 御霊の 賜物を 受けいれない。それは 彼には 愚かなものだからである。また、 御霊によって 判断されるべきであるから、 彼はそれを 理解することができない。 しかし、 霊の 人ひとは、すべてのものを 判断するが、 自分 自身はだれからも 判断されることはない。 2:16「だれが 主の 思いを 知って、 彼を 教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの 思いを 持っている。(1コリント2:6~16)

「十字架のキリスト以外を語らない」

【聖書の箇所】兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。 なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。 わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。 そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。 それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。(1コリント2:1~5)

「名をつけること」

【聖書の箇所】また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。 そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。 それで人は、すべての家畜と、空の鳥と、野のすべての獣とに名をつけたが、人にはふさわしい助け手が見つからなかった。 そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。 そのとき、人は言った。

「これこそ、ついにわたしの骨の骨、
わたしの肉の肉。
男から取ったものだから、
これを女と名づけよう」。

それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。 人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。(創世記2:18~25 JA1955)

「背中を押す人・足を引っ張る人」

【聖書の箇所】わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。(マタイ5:17~20)

「必要とする人に届く愛の働き」

【聖書の箇所】そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。(マタイによる福音書25:34~40)

「あなたから流れ出る命の水」

【聖書の箇所】祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。 群衆のある者がこれらの言葉を聞いて、「このかたは、ほんとうに、あの預言者である」と言い、 ほかの人たちは「このかたはキリストである」と言い、また、ある人々は、「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう。 キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。 こうして、群衆の間にイエスのことで分争が生じた。 彼らのうちのある人々は、イエスを捕えようと思ったが、だれひとり手をかける者はなかった。(ヨハネ7:37~44)

「借りようとする者を断るな」

【聖書の箇所】『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。 あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。 もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。 求める者には与え、借りようとする者を断るな。(新約聖書 マタイによる福音書5:38~42)

「新しく造られた者」

【聖書の箇所】それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(第2コリント5:16-17)

「低い者によって命の世界は動く」

【聖書の箇所】そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。 また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。

(マタイ18:1-6)

「失敗が許される限度は?」

【聖書の箇所】シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。 シモンが言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。 するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。