「土の器の中の宝」

【聖書の箇所】

「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。 こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。
(コリント人への第2の手紙4章6〜12節)

「礼拝を礼拝とするために」

【聖書の箇所】

兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

(ローマ人への手紙12章1,2節)

「あなたのための聖書」

【聖書の箇所】

聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

(テモテ第2の手紙3章16,17節)

「神と人から愛されて育ったイェス様」

【聖書の箇所】

両親は主の律法どおりすべての事をすませたので、ガリラヤへむかい、自分の町ナザレに帰った。
幼な子は、ますます成長して強くなり、知恵に満ち、そして神の恵みがその上にあった。
さて、イエスの両親は、過越の祭には毎年エルサレムへ上っていた。 イエスが十二歳になった時も、慣例に従って祭のために上京した。 ところが、祭が終って帰るとき、少年イエスはエルサレムに居残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。 そして道連れの中にいることと思いこんで、一日路を行ってしまい、それから、親族や知人の中を捜しはじめたが、 見つからないので、捜しまわりながらエルサレムへ引返した。 そして三日の後に、イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。 聞く人々はみな、イエスの賢さやその答に驚嘆していた。 両親はこれを見て驚き、そして母が彼に言った、「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです」。 するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。 しかし、両親はその語られた言葉を悟ることができなかった。 それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。母はこれらの事をみな心に留めていた。
イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された。
(ルカによる福音書2章39〜52節)

「主の祈り」

【聖書の箇所】

だから、あなたがたはこう祈りなさい、

天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。

もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。

(マタイによる福音書6章9〜15節)